伝説の淵《伝聞》
師匠の昔話
とある渓流釣りが趣味の知人から聞いた話です。
その知人も釣りの師匠から聞いた話で、100年以上遡る話になるのではないかとの事です。
少しややこしくなるのですが、その知人が30年前に、当時70歳を越える師匠から、こんな話を聞きました。
『俺がガキの頃な、俺の爺さんから聞いた話なんだが、その爺さんも爺さんから聞いたような昔話なんだ。ここらの山にはな、嵐が通り過ぎた後にだけ出る”伝説の淵”ってのがあるらしい。』
続けてその伝説を教えてくれました。
『そりゃあたいそう昔になるんだがな、マタギの頭領の大五郎って奴がいたんだ。 マタギっつっても、鉄砲撃ちだけじゃなくてな。 当時は木こりの意味合いもあったみてぇだ。でもって生きてく為にはそれだけじゃ食い扶持が稼げなくて、山の事なら何でもやってたんだとよ。時には、俺らみてぇに釣り糸を垂らしてイワナを釣ったりな。竹籠に笹の葉を敷いて水をぶっかけて、そこにイワナをぶちこんでな、イワナが居ない上流の沢なんかに放流して取った分増やしてたっつうんだから大したもんよ。 それなのに今時の奴らときたら取るだけ取りやがって…(割愛)』
『まあ、こんな話はいいや。んでな、ある時、下っ端の仁助って奴が山仕事の道具をそっくり山に忘れたってんだ。その話自体、狐か狸に化かされたって訳だが良く覚えてねぇ。 とにかく昔の人間にとって仕事道具なんてのは一生もんなんだよ。 借金して一式買って、自分で手入れしながらずうっと使うんだ。それを失くしたってもんだから大騒ぎよ。』
そして、自分が面倒を見ていた仁助を放って置けるわけもなく、大五郎はベテランの山師を数人連れて仁助と共に暗くなり始めた山へ行くと決めたそうです。
『普通は夜に山に入るっつうのは禁忌なんだ。ただでさえ山は人の領域じゃねぇ。それなのに夜の山に入ったら何が起きても文句は言えねぇんだ。死にに行くようなもんなんだとよ。それにつけてその日は嵐が来そうだったんだ。そんな日に山に入るやつは昼間でもいねぇんだが、その仁助って野郎、祝言あげたばかりで浮かれてたか良いところでも見せたかったんだろうな。 山に入って”こんな日に山に来るんじゃねぇ!”ってバチが当たったのよ。』
皆、仁助に怒っていました。ですが若いし、あまりにも不憫なので大五郎達は決死の覚悟で雨が降り始めた山へ入っていきました。
『夜目が効くのを先頭に行ったんだが、なんせ大雨だからな。今と違って大した灯りもねぇし、山の地図が完璧に頭にあっても思うようにいかねぇ、手探りで登っていったらしい。 雨に流されたり、土に埋もれて道具がどこにあるかわからなくなったら”おじゃん”だからな。 だけども頭領の大五郎だけは、まだまだひよっこの仁助がそんなに山深いところまで行ってるはずがねぇ、すぐ見つかるんじゃねえかと当たりをつけてたんだな。 つっても今の俺らからしたらだいぶ山奥よ』
大五郎の予想通り、それほど山奥に行かずとも仁助の仕事道具が見つかりました。
雨足が強くなっていたので急いで戻ろうとしていた時に、連れの1人が声をあげたそうです。
『親方ぁ! 上がるべ!鉄砲水が来るど!ってな。でも何でも無かったんだ。 けどよ、雨音が時々弱くなると確かにゴーっと水の音がする。 その辺りには沢なんてねぇからおかしいと思ったんだ。大雨で流れができる事はあるがそれにしちゃあ音がデカすぎる。』
大五郎率いる一行は、帰りながらもその音のする方を探りながら歩みを進めていたそうです。
『するとな、どうも向こうの方から音がするってんで、よせば良いのに仲間の1人が見てくるっつうんだ。 そこはいつもだったら窪んだ岩場で何もねぇ。だがな、戻ってきたそいつに聞いたら、上から滝のように水が流れて淵ができてるっつうわけだ。』
大五郎は”この大雨だから有り得ないことでもあるまい”と軽くたしなめ、帰りを急ぎました。
命からがら無事に帰ってこられた一行は、早々に解散し、それぞれ家に帰って行ったそうです。
明くる日も雨は朝まで降り続き、この日も山に入るには危険だったので皆、道具の手入れをしたり竹籠を編んだりして時間を潰していました。 そこへ昨夜、岩場の淵を見た男が大五郎の元へやってきてこう言います。
”親方、しばらく山仕事は危ねぇだろ? でも沢はその内※笹濁りになって釣りをするには絶好だ。 そしたら、一緒にいかねぇかい? あとよ、おらぁ、あの淵が気になってよ。もういっぺん見てみてぇんだ”
※笹濁り=洪水の直後の川は茶色に濁り、それが次第に落ち着くと笹色(薄い青緑)になるそうで、その時が一番釣れるのだそうです。
酔狂な奴めと思った大五郎でしたが、自分も釣りには目がありません。 山の様子を見に行きがてら竿でも出してみようと考えていたのでその男、(又八としておきます)と釣りに行く事にしました。
岩場の淵へ
2、3日様子を見て頃合いだと思った大五郎と又八は、日の出前に山へ向かい、空が白みはじめると共に竿を出しました。釣りをしながら沢伝いに山を登っていくと先日の淵の近くへ来ていました。
様子を見にいくと言って又八は斜面を登っていき、大五郎は一人、釣りをしながら待っていたそうです。
少しすると又八が戻ってきました。大五郎が釣りをしているというのに音を立てるのも気にせず、枝を踏んだり、石を蹴飛ばしたりしながら早足でこちらに向かってきます。
その目は爛々として、興奮しているのか鼻の穴が広がっていました。
”釣りしてんだ! 静かにしろいっ! 又八! てめぇはいつもそうやって…”
大五郎が言い終わらないうちに、又八が息を荒げながら遮るように言いました。
”親方!こっちにきてくれ! すげぇもんがある!”
なんでぇ?と思いながらも、興奮した様子の又八に引っ張られるようにして斜面を登って行きました。 岩場が遠目に見下ろせる場所が近づくと、さっきまでぶっきらぼうに歩いてた又八が、足の置き場を選ぶようにして一歩、また一歩とゆっくりと静かに進み始めました。 よくわからないが、こりゃあ獲物がいる時の歩き方だなぁと察した大五郎も静かに後を続きました。
”親方、あそこを見てくれよ、あの淵だ”
小声で又八が言います。そちらの方を見やると確かに淵があります。上から水が流れ込み、何もない岩場のはずが水甕(みずがめ)になっていました。 でもそれだけの事で何をそんなに興奮しているのかよくわかりません。
又八にもっと良く見てくれと言われて眺めていると、水面の影が動いている事に気がつきました。そういえば影にしては、やけにはっきりとしていて黒すぎる。一体なんだと思って、もっと目を凝らしてよく見るとそれは影ではなく、
その淵を覆い尽くすかのように泳いでいるイワナの群れでした。
イワナは岩魚と書き、警戒心が強い為に普段は岩の下でじっとして、落ちてくる餌を狙っているそうです。水中や水面近くを泳ぎ回っているなど有り得ません。
驚いた大五郎は又八と目を合わせ、どちらが言うでもなく静かに元いた沢の方へ戻りました。
夢の時間
その沢を数百メートル下り、あの淵から流れ落ちる水流を見つけて、軽く打ち合わせをし、渓流釣りの定石通りにそこから静かに登っていきました。
イワナに気取られないように息を殺しながら、身を低くして淵の近くに来ると、打ち合わせ通りにまずは又八が竿を出し、糸を垂らしました。
瞬間、糸は淵に引きずり込まれ、竿先が大きくしなります。逃さないように慎重に、それでいて手早く、淵から流れ落ちる水流の方へと引き込み、獲物が音を立てないうちに引き抜きます。
良い型の綺麗なイワナが釣れ上がりました。それを見た大五郎は又八が魚籠(びく)に魚を入れるのを待たずに糸を投げ込み、あっという間にもっと良い型のイワナを釣り上げてしまいました。
変わるがわる釣り上げる2人ですが、イワナも食い気が収まらないのか入れ食いが止まりません。
まだるっこしい大五郎は少し離れた岩陰に移り、少々荒っぽいですがそこから岩魚を引っこ抜くようにして釣り始めました。
まだ日が登ったばかりだと言うのに、2人の魚籠はあっという間に一杯となり、釣り納めとなりました。興奮冷めやらぬまま山を降りた2人は、明日も同じ淵に行く約束をして家に帰りました。
昼にならないうちに帰ってきたので、2人とも気合を入れて仕掛けを作り直し、餌となる川虫やミミズをしこたま集め、もっと釣れても良いように竹籠を引っ張り出して明日に備えます。
再度、あの淵へ
そして明朝、万全の備えをして落ち合うと、我先にと言わんばかりに勇んで歩を進め、途中で竿を出すこともなく例の淵へ一気に登り上がりました。
忍者のように息を殺しながら抜き足差し足で淵へ近づきます。
しかし、そこには昨日の淵はありませんでした。
水も魚の影も全く有りません。 上の方からチョロチョロと僅かな流れがあるだけでした。
2人は肩を落とし、里へ帰っていったそうです。
『とまぁ、こんな具合だな。淵が真っ黒になるほどのイワナもその淵も一晩で消えちまったんだ。おかしな話だろ? でも不思議なのはよ、そういう幻の淵を見つけたって話が今でもたまぁにあるんだよ。ただ、その場限りで同じ条件の時に同じ所へ行っても何もないそうだ。俺も若い頃、探しに行ったことがあるがついぞ見つからんかった。それらしい場所はいくつかあったんだけどな。』
師匠は続けます。
『ただな、淵を覆い尽くすまではいかないがイワナがたくさん泳ぎ回ってるのは見たことがある。それも、とある条件が揃った時に、とある淵でだ。いつも岩の下に隠れてじっとしているイワナが、無防備に泳ぎ回ってるんだ。こんな淵に、こんなにイワナが居たのかってたまげるぞ?』
知人はどんな時にどこで見れるのか師匠にしつこく聞いてみたのですが、教えてもらう事はできませんでした。
『見たきゃ自分で探せよ、新聞に載る事になっても知らんがな!』
どうして新聞に載るんだと思った知人でしたが、不吉な物を感じたので、もうその話題に触れることはせず、師匠も二度とこの話はしなかったそうです。
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